story
venetian classics

こちらは items という名前からご想像のとおり、当店で取り扱っている品物のご紹介をさせて頂くカテゴリになります。最初に何からはじめようかと思案しましたが、こちらにしてみることにいたしました。

 

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この”venetian classics”のご紹介をさせて頂くことでRICORDOという場所、空間が成り立った背景のご紹介にもなりますし、またそれはブログにstoryという名称が付いている表れにもなるのではないかと考えました。

 

あ、あらかじめお断りしますが、長文です。。

 

さて、このvenetian classicsをご覧になられた方からは「アンティークですか?」「外国のものですか?」というお声を頂くことが多いです。それらは率直に、形が日本のものとは違う印象を持たれるからかもしれませんし、また所謂ヴェネツィアン・グラスを想起されるからかもしれません。

 

この”ヴェネツィアン・グラス”という名称はその名の通り、イタリアはヴェネツィアで作られたガラスの呼称です。そしてそれらの大半は華やかな極彩色のガラスが用いられています。私もムラノ島を訪れた時に見ましたが、夏の強い陽射しと抜けるような青空、海を背景に見た色とりどりのガラスは見事なものでした。

さて、ここでお気付きの方もいらっしゃるでしょうが、現地のヴェネツィアン・グラスは極彩色で形作られていますが、venetian classicsのシリーズは全て透明のガラスで作られています。また、サイズも日本の住空間を意識して、やや小ぶりに作られています。ですが、おおよそのイメージとして”ヴェネツィアン・グラス”として思われたりもするわけです。これは、それだけ”ヴェネツィアン・グラス”という形式が完成されているからでしょう。

 

ここからは、歴史をふりかえってみます。

イタリア各地では紀元の初め頃からガラス工場がつくられ、ヴェネツィアではローマ時代から伝統的なガラスがつくられていました。また、ビザンティンの宗主権下に置かれたことで海商の本拠地という性格が強く、1104年にはドージェ総督のもとヴェネツィア人が「海軍工廠」(アーセナル)と呼ぶ巨大な国営造船所を建設することで強力な海軍国になりました。そして、1140年頃ヴェネツィアとジェノヴァを中心とするイタリア沿岸諸都市が、それまで地中海沿岸を制圧してたイスラム艦隊を破った後は地中海の交易ルートを掌握することに成功。海賊を鎮圧したことで商業活動が活発になり、イタリア沿岸諸都市は東方交易による膨大な富を得、後のルネッサンス運動の経済的基盤をつくることになります。

 

1291年ヴェネツィアはガラス工場をムラーノ島に集中移転します。この時期のヴェネツィアはジェノヴァに抑えられ苦しい時期でありましたが、皮革、羊毛、レース等の各工場の再配置を進めていきます。ムラーノ島のガラス工場は強力なギルドを設立し、ガラス組成、デザインの開発製造を行い、同時にそれらの秘密を厳格に守ります。

 

ヴェネツィアは都市国家であり、また海洋国家であったことでイスラムやビザンティンの文化を知ることができました。その影響で容器や日用品がつくられると同時に、アラビアの科学との接触機会が多い影響で理化学用のガラスもつくられました。13,4世紀にかけて老眼補正用、近眼用の凸凹レンズの製作、錫アマルガム法によるガラス鏡が発明され、ガラス工業の基礎ができあがります。なかでも、ガラス鏡はこの後400年もの期間に渡りヨーロッパ各地に輸出されました。

 

ガラスの素材、技法に注目してみますと、14世紀初頭からヴェネツィアで「クリスタッロ」と呼ばれる、マンガンを消色剤として使った無色透明のソーダ石灰ガラスをAngelo Barovier (アンジェロ・バロヴィエル)が開発します。今では「ガラスといえば透明」ですが、この時までは完全に近い透明のガラスは無かったのですね。

このクリスタッロは北ヨーロッパからは羨望の的であり、18世紀まで最高級の鏡として愛用されます。また16世紀頃からはクリスタッロで作られたゴブレットもみられます。他にも「エナメル彩ガラス」「レース・グラス」「ミルフィオリ」「エングレービング」等など、多くの技法が開発されます。

 

こうしたムラーノ島で起こったガラス製作はヨーロッパ各地に影響を及ぼし、どこでもヴェネツィア様式でガラスをつくるようになり、ヴェネツィア製と他の都市でつくったものの区別がつかなくなります。1490年には技術を持ちだしたり、他国から再びヴェネツィアへ帰ろうとするガラス職人への報復措置、処罰が制定されます。

しかし、こうした脅しにもかかわらず職人たちは技術提供のためヴェネツィアを離れ、やがて17世紀にはヴェネツィアングラスの影響力は弱まり、さまざまな様式や新たなガラスの組成も開発されます。また、窓ガラス、鏡の大量製造がフランスで成功し、ガラス工業の中心が南ヨーロッパから北ヨーロッパへと移ります。

 

技術の流出には職人の移転もありますが、様々な出版物によりガラスの製造法が明らかになったという別の視点もあります。また、北ヨーロッパが貪欲に新しい技術を生み出していこうという気概にあふれる一方、ヴェネツィアのガラス職人はそれまでの製品に満足し、他の都市で働く弟子や仲間に比べると着想や創造性の点で一歩下がったようになってしまったこともあったそうです。

そしてついには以前輸出していた国のガラスがヴェネツィアへ輸入されるようになってしまいます。さらには1607年、ヴェネツィアへのガラスの輸入を禁ずる法令が施行されます。

 

16世紀末には約3000人のガラス職人がムラーノ島で働いていたが、1773年には330人、さらに19世紀初めにはヴェネツィアのガラス製造は実質的に途絶えてしまいます。現在の形で復活できたのは19世紀中期に弁護士サルヴィアッティと修道院長ザネッティの働きによるものです。

 

そうして復活したヴェネツィアン・グラスは今日でもなお、観光地の土産物として職人、その家族、それに関わる人の生活を支えているのです。が、しかし、かつては国益を左右するような一大産業だったことから比べれば観光地の土産物というのは華やかさに欠けるものとも考えられます。何も土産物が良くないというわけではありませんが、所謂”土産物”というのは油断すると形骸化し易いものです(その独特の陳ねた味わいというのもありますが)。また、そういった華やかさに欠ける産業、市場には若者は近づかないものです。そうです、後継者難です。

 

そんな状況をただ是としなかった人物がいます。Lino Tagliapietra(リノ・タリアピエトラ)です。彼は700年以上に渡り継承されてきたヴェネツィアングラスという伝統、技術の継承を憂慮していました。そして、そこに1人の人物との出会いがあります。Dale Chihuly(デイル・チフーリ)です。チフーリ氏がイタリアを訪れた時にタリアピエトラ氏と出会い、マエストロはアメリカで勃興しつつあったスタジオグラス・ムーブメントの香りを感じ、アメリカに渡る決心をするのです。

 

スタジオグラス・ムーブメントとは1960年代後半にアメリカで興った動きです。それまで工場などの大規模で大量生産に要請される素材であったガラスをアーティスト達が自身の表現媒体とする為にアトリエに溶解炉を設けたことがはじまりとなっています。おそらくアメリカのDIY精神やカウンターカルチャーといった時代背景、気分といった後押しも伴った(と私は想像するのですが)このアメリカ東部からはじまったムーブメントが西海岸に到達し、71年、シアトルに「Pilchuck Glass School (ピルチャック グラス スクール)」という学校が設立されました。この学校の創始者こそが先程のチフーリ氏なのです。

 

さて、そんなチフーリ氏を介してタリアピエトラ氏はヴェネツィアングラスの技術を携え北大西洋を渡りました。これまでも技術が流出することはありましたが、マエストロ自ら、ということは初めてのことだったでしょう。近代のガラス工芸の歴史から観れば大きな転換点、事件といえるでしょう。
そして、アメリカのアーティスト達はその技術を歓迎、受容し、やがて10年ほどで世界中に拡がることとなります。

 

と、ここまではガラスの歴史を振り返る昔話でしたが、ここで今現在へと直接繋がってきます。
“venetian classics”の作者である辻野剛は10代後半に「世界現代ガラス展」を見て、自身でも作ってみたいと思い最初は国内の教育機関、後にさらなる技術習得、発展を求めてアメリカに渡ります。そして、そこでタリアピエトラ氏の技術に出会ってしまうのです。それを目の当たりにした時のことは、まるで魔法のようで、その光景は今でも目に焼き付いているそうです。

 

辻野剛はアメリカ各地の工房で研鑽を積んだ後に帰国。国内でもガラスの仕事に携わった後に自身の工房であるfrescoを起ち上げます。frescoとしては日常生活の中に手作りのガラスで出来たもの使うというスタイルを提案する一方、個人の作家として作品発表も続けていました。venetian classicsもそういった作品群のひとつです。

 

ある時にvenetian classicsが燕子花のかたの目に留まり展覧会を催すことなります。そこで、その展覧会に小林和人氏が来場し、やがて仕事をご一緒にすることになるのです。小林氏は吉祥寺の OUTBOUND / Roundabout の店主であり、当店のオープンにあたり内装や什器の見立てなど多大なる助力をしてくださいました。そうした縁に取り持たれRICORDOという場所は成立することとなりました。

 

話は”ヴェネツィアン・グラス”へと旋回しますが、この呼称はヴェネツィアで作られた品物にのみ許可された名称です。といいますのも、現在では中国や東欧からガラス製品を輸入してヴェネツィアでヴェネツィアン・グラスとして販売する業者もあるから、ということだそうです。歴史を知ると何とも言い難い状況ですね。さらにまた、歴史を知ると、透明で作られたvenetian classicsというものが歴史を圧縮した品にも思えてきます。

 

 

ヴェネツィアでアメリカから来たチフーリ氏とタリアピエトラ氏が出会い、一大決心のもとアメリカへ渡り、アメリカで日本から来た辻野氏がタリアピエトラ氏の技術を目の当たりにし、そこから生まれた作品が燕子花へと繋がり、取り持たれた縁で小林氏へと。

 

さまざまな人の情熱により続いてきたヴェネツィアングラスの技術は、辻野剛の”venetian classics”という表現として今ここに息づいています。

 

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黒川 高明 「ガラスの文明史

辻野剛 「澪標 -スタジオグラス(1)-

 

 

初回で、扱ったものがものということもあり、大仰になりましたが、次回からはもっと気楽なものにしたいと考えています。

ここまで読んでくださった方(いらっしゃいましたら)ありがとうございました。

 

 

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